僕が退社を決意するまで【Vol.1】
こんばんは!ちゃんやまです。
前回のブログにちらっと書きましたが、会社を辞めることにしました。
「夢を追いかけるなら今しかない」
こんな言葉をかけてくれる上司に出会えたことは、一生忘れられません。
ここで、自分の22年間をこの場を借りて振り返り、
これからの新たなステージへ向けた準備としたいと思います。
1993年3月27日、僕は相当な難産の末に産まれました。
どのくらい難産かというと...
母親が分娩室に入ってから三日間飲まず、食わず、吐き通し
先生と共に自然な形での出産にこだわった末、無事出産。
まさに、偉大なる母です。※写真はおばあちゃんです。
そんな難産を乗り切った子供なら、どんなパワフルな生き方をするかと思いきや、
いとこにすら怯えてしまうほどの人見知り、声が小さい、写真に写りたくない、
新しいことに挑戦することが嫌い、自分の意見はどこにも無い。
仲のいい子にしか素を見せられないし、うまく話せない。
サッカー、野球は好きで、友達もそれなりに居て、大きな病気もせず、
静かに、平和に育っていきます。
生活においては何不自由なく育った幼少期でしたが、
自分をうまく表現できないことにコンプレックスを抱いていました。
そんな僕がめずらしく自分のことを主張したのが10歳の二分の一成人式。
「僕は将来海外に出て、素晴らしい技術を学び、たくさん日本に持ち帰り、
よりよい国にしたいと思います。」
僕の性格や日頃の態度を見てきた先生や親、友人は驚いたことでしょう(笑)
自分でも信じられませんが、たしかに文集として残っています。
どこからそんな発想が生まれ、どんな気持ちで何百人という人に語りかけていたのか。
全く覚えていません(笑)
僕の大事な友人の言葉を借りて、
「人は自ら環境、親を選んで、今世のシナリオを作って産まれてくる。
その人の人生は自作したそのシナリオ通りに動いていく。」と考えるならば、
10歳のある日、僕は自分に課した使命をふと思い出したのかもしれません。
しかーし、発表が終わってから、同じ言葉を口にすることはありませんでした(笑)
その後、もう一度僕の心を大きく揺さぶったのは「旅行」でした。
添乗員に憧れを抱いた僕は国際観光学科への進学を決めます。
続きは、次回に。
いつも読んでくださる方々、本当にありがとうございます。
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